ライオン像のある館」

         旧直江津銀行建物

            上越市中央3-7-31。

          関川河口西海岸船見公園

     市営無料駐車場利用可。

    蔵cafe沙羅さんはす向い。

  

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古墳発掘中の関野貞氏
古墳発掘中の関野貞氏

関野貞氏

 慶応3年12月高田藩士関野家の二男として、貞は高田で生まれ、そして育った。

 M28年帝国大学工科大学造家学科卒業。造家学科2年先輩である同郷の長野宇平治とは、M25年大学入学と同時に同居するという友人関係にあった。長野と同じく辰野金吾教授の元で学び、日銀関係工事に従事した後、M29年長野の後任として奈良県嘱託、M30年奈良県技師。

 M30年の古社寺保存法成立に伴い、奈良県内の古建築の年代推定・目録作成・修理監督に従事。M32年平城京大極殿跡を発見。M34年東京帝国大学工科大学助教授、M35年朝鮮遺跡調査を開始、M38年法隆寺非再建論を発表して論争となる。M39年中国遺跡調査を開始。M41年工学博士、T9年東京帝国大学教授、S3年定年退職。S4年東方文化学院研究員。S10年7月67歳で没。東京にて埋葬。

 幕末から明治初期にかけて、厭旧競新や廃仏毀釈の気風により、寺社仏閣の荒廃と文化財の破壊・流失が進んだとされ、M4年には日本で初めて制定された文化財保護法とされる「古器旧物保存方」が制定されたが、主に寺社宝物が対象であり、文化財保護としては不十分なものであった。日本における建築史学は、伊藤忠太らの構想により関野貞が具体化したとされ、これら複数人が創始者として扱われる。関野は、建築当初の姿を最上とするが、後世の付加部分についても場合によって価値を認めるという視点に立ち、奈良の古社寺の復元修理を指導監督した。さらに日本・朝鮮・中国の遺跡・建築・美術の踏査調査を実施し、考古学・建築史・美術史を横断する多数の資料の収集分析を行い、歴史的建造物を含む文化財保護の基礎領域について広範な業績を残した。

 関野の建築実作は、初期の数作しかないが、日本生命保険株式会社大阪本社(M34年、現存しない)や奈良県物産陳列所(M35年、現奈良国立博物館附属施設、重要文化財指定)はいずれも卓越したものである。

 関野の論文著作は、「韓国建築調査報告」(M37)、「平城京及び大内裏考」(M40)、「朝鮮古蹟図譜1~13」(T4~S8)、「日本の建築と芸術上・下」(S15・H11)等の単著多数、伊藤忠太、武田五一、常盤大定等との共著・監修多数、「鳳凰堂建築説」(M28)、「日本建築沿革概説」(M30)を始めとする論文約400点を表し、謹言実直な生活態度を一生涯保持して、膨大な研究・調査の結果を記した。近年になり東京大学等の研究者により関野貞資料の調査・公開・出版が行われ 再評価が行われている。

 

 記述は「東京大学コレクションXX関野貞アジア踏査、関野貞研究会編、H17年、東大総合研究博物館」「関野貞日記、 関野貞研究会編、H21年、中央公論美術出版」等を参考・引用した。